「カサンドラ症候群」傾向の母。
「アスペルガー症候群」傾向の夫を持ち、
日々の生活の中で彼から尊厳や判断を奪われ続けてきた為、
年老いながら抑うつ症状が出てきたように思う。
そんな母だったが、ある時猛烈に元気になった事がある。
結婚後それまで一度もした事無かった「一人旅」から帰ってきた時だ。
意を決し、食卓の父の座席に書き置きだけ残して、無断で行った北海道。
母の中に滞っていた「主体性」を再奪取出来た事が、
帰宅直後の元気さを作ったのは明らかだった。
”自分の為に生きる”。
人はその為に必要な選択を一つずつしていく権利がある。
そんな当たり前の事を結果的に一人旅の中で久しぶりに存分味わい、
言い換えれば「認知行動療法」的とも言える経験をしてきたのだと思う。
おそらく、芸術療法において絵を描く事に価値が見出され活用されてきた理由のひとつも、
主体性の再構築に有益だからだろう。
自分にとって心地よい色や形を一瞬一瞬自分で判断し、決めていく。
”自由と責任のハンドル”を握る事は、生きる上でのエキサイティングな喜びだ。
ひきこもりだった僕はリカバリーの過程で、主体性の再構築を丁寧に意識し回復の段階を進めた。
母には再度、妻や母という課せられた役割を放り出して一人旅に行って欲しい。
それは息子にとって都合のいい母ではなくなる事でもあるのだけれど。
自律する事の方が役割に飲み込まれるよりもよっぽど大事だ。
母は、僕が深刻なひきこもりだった時、部屋の扉をノックすらしてくれなかった。
何ヶ月も。
母になら扉をこじ開けて欲しかった僕は、母からの放置を恨み、
その為ひきこもりが長引いて深刻化した。
後に母は、”あの時どうしたらいいか全くわからなかった、思考停止してしまった”と告白する。
日常的な役割仕事やルーティンワーク以外の事に、思考が追いつかなかったのだ。
母の主体性は、夫との長い生活の中で奪われ、抑圧されてきたのだと思う。
僕の個人的な感覚として、このように主体性を抑圧された大人は日本に多いと思う。
妻、夫、女、男、など、役割に従わされる自分。
自分が自分として生きる事が出来ていなければ、
困窮した他者に寄り添うことやイレギュラーな事象への対応は反応が鈍くなる。
ひきこもり当事者だった自分も当時、居場所を奪われ、
社会の中での自分の身の置き場が無くなり、
どうにか小さな部屋のベッドの上でのみ、自己決定権を限定させていた。
部屋の扉の向こう側にも、
僕とは違う、また別の痛みを持った存在である母。
母に寄り添う必要性に気付いたら僕のひきこもりは案外とあっさり終わった。
自己の痛みにばかり執着するとらわれは崩れ、
他者に寄り添う必要性に突き動かされた時、
”自由と責任のハンドル”を久しぶりに握って、また進み出す感覚を取り戻した。
ひきこもりの問題を語る時、ひきこもり当事者の隣に居る人も、
その問題のもうひとつの当事者性を持っている。
ひきこもり問題に寄り添う者。
ひきこもりを終えて数年経った昨年、僕と母を並列的に座らせて、
我が家で起きたひきこもり問題について、
"それぞれにとっての扉のこちら側"で感じていた事を改めて告白し合う映像を撮った。
とはいえ、これは渡辺家の問題だけをピンスポット的に扱いたい訳ではない。
また別の対角線上に鑑賞者が介入するよう椅子を置いた。
《わたしの傷/あなたの傷》 2017年
ビデオ(31分31秒)
出演協力:渡辺の母親
映像編集:井上圭佑
助成:アーツコミッション・ヨコハマ
《わたしの傷/あなたの傷》(ミニチュア)
2017年
ミニチュア(モルタルに金継ぎ)
共同制作:母親
原型制作:Hidemi Nishida
※本文は2018年7月15日にfecebookに投稿した内容を一部加筆修正した
7月21日に、掲載画像の映像作品「わたしの傷/あなたの傷」の上映や、”ひきこもり”、”カサンドラ症候群”、”アスペルガー症候群”などについて語るトークイベントを開催します。
ご予約制です。ツイッターアカウントお持ちの方は主催者DMまでご予約のご連絡をお願いします。https://twitter.com/kotart90
会場ウエブサイト:https://gochamaze-mem.jimdofree.com/