2018年9月1日(土)横浜にて
結局のところ、人は別の誰か(他者)の心情を代弁など出来ない。
便宜的に使わざるを得ない、当事者問題の活動家による ”我々当事者は” という言葉は、
その矛盾にも自覚しながら発しないと、おごりや権力も生まれうる。
問題を当事者だけで占有し、孤立してしまう。
当事者問題とは<属性問題>でもあるけど、究極的には<個人問題>でもある。
当事者が、隣の当事者の代弁をする様なことは、本来は矛盾があり、不可能だ。
当事者という属性の中にも、当事者が想像し得ない別の当事者が居る可能性は常にある。
とはいえ、なかなか理解しづらい「他者の当事者性(他人事)」を「自分事」として考えることの提案のために、
便宜上当事者は、その属性を発揮し "我々当事者は" と、非当事者の居る側(社会)に向けて語らざるをえない。
そのため当事者は時として寄り集まって、「我々の集団」や「繋がり」を作りもする。
また、当事者がその属性を前提とし、外に向けて「非当事者は当事者について分かったように語るな!」
などとと抑制することは、
いずれ、限られた者たちだけでの取り組みにもなりえ、そのうちにその取り組みは衰退しかねない。
当事者問題の現場では、自助(や共助)の活動の価値が唱えられてもいるが、
けれどそれは当事者達だけで解決する/できる問題だ、ということを語っているわけではない。
社会に生きる様々な立場の人を巻き込み、
また、非当事者側も、当事者性を間接的に自己生成させたりしながら、
解決に向けて共に取り組んでいくことが理想ではないだろうか。
当事者問題は当事者だけで引き受ける問題ではなく、社会全体で引き受ける問題だ。
その為には、当事者側からも非当事者側からも歩み寄りが必要なのだと思う。
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当事者問題は、繋がるタイプの運動だけが、理想の全てではないのかもしれない。
本来、「我々は」でなく、「私は」でもいいのだろう。
それが「我々は」に傾きやすいのは、その方が効果的だとか、「私は」と語る権利を奪われてきたからでもあるだろう。
また、「当事者」を属性として見た場合、他者性についても掘り下げない限り、それを掴むことは出来ない。
「属性としての当事者」の内部は、複数の「他者」で成り立っている。
他者とは常にその心情を代弁出来ない、自身にとって不確かな対象だ。
「私たち(当事者)」について考えることは、
その瞬間から同時に「あなた(他者)」について慎重に考え続けることなのかもしれない。
わたしがなぜ、引き続き、ひきこもりの問題をテーマに扱ったのか。
それが切実な社会問題であり、解決が急務であるという深刻な現実もあり、
アートが直接的な作用としてそこに介入できる可能性を模索することが理由の半分。
もう半分は、この問題は、「他者」という究極的に困難な不可視の存在を考える上で、
ある意味ではわかりやすいモデルであるからだ。他者とは普遍的な問題なのである。
自閉性を持った他者(ひきこもり)とは、より、「共感」から遠い位置に居る。
共感は、いつも限定的であり、また、いつも幻想でもある。
(ひきこもりの他にそうした「共感の不可能性」について象徴的な位置に居るのは、例えば「死者」だろう)
あなたを知ることは出来ない。知ろうとしたり、知った気にはなれる。
不可視の存在としてのあなたを考えることは、その理解に無限を認めることでもある。
共感の不可能性を前提に他者を知ろうとすることが、ひきこもりの問題を解決するために必要なことであり、
また、そこから学べることだろう。