「待ちの支援」よりも「届ける支援」か。。
きっといい言葉なんだろうけれども、でも一歩間違えれば危険な思想でもあると思う。
究極、他者なんて共感不可能性のあるものなんだから、何を望んでいるかなんてわからない(当事者の言葉を傾聴できたとしても、本当の本当はわからない)。
他者関与なんて全部”おせっかい”だろう。おせっかいを承知でするのがいいと思うし、おせっかいだからこそ、それ以上支援者側の美意識を押し付けてはいけない。
背を向けている者の肩を無理矢理に引っ張ってこちらを向かせようとするのは支援ではない。ただのエゴだ。
「支援」も「寄り添い」もそれを行う側の都合の言葉だと思う。おせっかいには丁寧さが必要だ。逆撫でして、より傷つけてしまうなんて本末転倒だ。
2018年は様々なひきこもりに関する企画に参加し、特に当事者経験を過去もしくは現在に持ち、支援寄りな立ち位置に居る方と多く出会った。そうやって知り合った全国の活動家の知人たちが日々FBで議論や発信をしている。
僕のタイムラインはどうやっておせっかいをするか日々悩んでいる人が多くて嬉しい。そのおせっかいはいかがなものかと批判する人も居てくれて嬉しい。
おせっかいについて悩むことはとても大事なことだと思う。「社会包摂」ってきっとそういう態度が必要なんじゃないかな。