23歳から始まった鬱との付き合いは33歳になるまでちょうど10年間続いた。
東京藝術大学受験での4年間の浪人生活を経て僕の心はストレスが溜まり続けてきたのだろう。大学生活の始まった直後には心の異変を感じはじめ、いよいよ大学3年の初夏に心療内科に行き薬を呑みはじめた。10年の間にいくつか転院もしたが、その間に医者から出された薬の総量は半端じゃない。病んだ芸大生だった僕は作品素材になりえるからと、呑んでいた抗うつ剤や睡眠導入剤などのプラスチックの薬包を捨てずにほとんどすべてとってある。きっと今でも倉庫の奥の方にあるだろう。量にして、みかん箱2、3個にもなるだろうか。
そういえば、2000年代前半の当時の大学は学生に対するメンタルヘルスのサポートは実際的にはあまり上手に機能していなかったように思う。世間でもうつ病に対する認識は未だ進んでいなくて、例えばインターネット上には"鬱は甘え"と、偏見からくる差別のフレーズが飛び交い、抗うつ剤を呑むことは、誰にとっても大きな心理的ハードルがあったように思う。鬱になってしまったことが悪いことに感じ、こそこそと逃げ出すように教官室に休学届けを出した苦い思い出。表現作品においても、ネガティブな心理状態に触れることは自己満足な弱音でしかないとする根拠のないマッチョイズムが教授たちの間にもあったと思う。現在の日本はそこから状況がやや動き、例えば芸能人が自分の鬱病治療の告白をしたり、SNSユーザー同士で自分の呑んでいる薬について語り合ったりする様子も当たり前のように見かける様になった。僕が初めて心療内科の門を叩いた頃は、鬱病に対する風当たりや抗うつ剤を呑むことのタブー感はとても強かった。その頃よりは弱さを吐き出し共有できる社会になってきている様に思う。
結局、4年も浪人して入った芸大に在学した9年間、その期間は、まるっと鬱だった。不幸中の幸いなのか、その後ちょうど10年目に終わりが訪れるわけだけど、その最中は一生これが続くのだという気もしていた。何年も薬を飲み続け、そのうちそれが当たり前になって。解決の糸口なんか見えず、まさに”鬱が続くことを思うと鬱になる”。そんな感じ。
瞬間瞬間辛かったのだけれど、一番ひどいときには希死念慮もあった。学生時代最後に一人暮らししていた茨城県取手市の家では、心の調子の悪さを母に電話したら様子を見にきてくれた。玄関先で死にたい気持ちを伝えたその日、そのまま母が乗ってきた車で実家に連れ戻された。
今思うと、あの頃は目に見えていた世界は、明度も、彩度も今よりもちょっと低かったようにも思うし、もしかしたら呼吸量も少なかったかもしれない。あの10年間は常に生きづらさと暮らしていたんだろう。
先日、大学を休学をする直前に住んでいたアトリエ兼居住アパートがあった、東京の「谷根千エリア(やねせん:谷中・根津・千駄木)」を久しぶりに歩いた。谷根千は芸大の近くにある上野の隣の町で、昔ながらの路地裏や銭湯などの風景と新しい感覚のカフェや雑貨屋が混在する町。それでも鬱真っ盛りだった当時の僕が見ていた風景は、なんだかいつもグレーでずっと不安や孤立感が漂っていたし、息苦しくてずっと何かにすがりつきたくて、大した呼吸もできずに漂流していた感じがする。もはや溺れ掛けていた。
けれど先日歩いた懐かしい場所は、同じ住所のはずなのに見ている世界が別な場所の感じすらした。素敵な町だった。僕が10年連れ添った鬱ってやつは、日々の暮らしから、安心できる居場所すら奪っていたのだと過ぎ去ってみて知る。
2007年当時の写真。まだガラケーだった。東京芸大絵画棟8階のアトリエから撮影した谷根千方面の街並み。