《The Door》2017/2019
コンクリートに金継ぎ
©️2017-2019 Atsushi Watanabe / Photography by Keisuke Inoue
…この作品は現在開催中の「修復のモニュメント」展でご覧いただけます。
(展覧会は新型コロナウイルスの感染拡大に対する措置のため2020/3/1-5/6は休止。再開日未定。会期は6月上旬までの予定)
昨日、海外拠点のとある放送局から取材された番組で、自身の作品が紹介されました。しかし、その内容には誤解を与えかねない箇所があったと感じています。その訂正と作品の背景を書きます。
番組でも紹介されたこの作品は、私がひきこもりを終える経緯でのストーリーに基づいています。私はひきこもりだった当事、実家で家族と暮らしていました。母は比較的理解を示してくれる存在でしたが対話を得意とはせず、また父は他者の感情を汲み取る事が全くできない横暴な気質でした。
あるきっかけが起き、私は永く続いたひきこもりを終えることになりましたが、その少し前に、私は母の無意欲・無関心な支援姿勢を批判し、関わる意欲を要求しました。共に暮らしながらも深刻化する問題を見て見ぬ振りし続けノックすらしてくれない母に対し怒りが募り、母の居る居間の扉を蹴破ってしまいました。しかし、ドアの向こうで見た母はともすると私よりも疲弊していたのです。けれどもひきこもりについての専門書を何冊もテーブルに積み上げ、母なりの努力をしていたようでした。介入したくなかったのではなく介入できなかったのだと悟りました。
また同時期に父が発注しようとしていたインターネットで見つけた暴力的支援団体(ひきこもりに対し強引に介入し、連れ出しや軟禁などを行う業者。昨今当事者らによる連帯的な運動体から批判されているが、事情を知らないマスメディアは今なおこうした悪徳業者を唯一のひきこもり問題の打開策の様に誤解し賛美的報道をしてしまっている)による介入は、ひきこもる自由すらを奪う人権問題だと言えます。
私は他者に対して、傾聴的な介入の要求と、そして反対に強制的な介入への批判があったのです。
ドアというのは、それを開けることによって他者と対話可能な状況を生み出す起点になりえますし、同時に外界からの暴力的な侵入を防ぐ機能もあります。
ひきこもりだった私は、母の存在を通して他者の痛みに寄り添う事の可能性について知りました。そして父の存在を通して、横暴な支配に抵抗し主体的な権利を保持し続ける必要性についても決断を迫られました。それらが直後に私がひきこもりを終えた理由です。
この作品は、こうした他者からのドアを挟んだ、介入におけるアンビバレントな感情について扱っています。
昨日放送された番組による編集では、数多居るひきこもり当事者たちの部屋のドアを、外側に居る者が強引に開ける事をよしとする様な誤解を与える内容だと感じました。ここに訂正します。