自律が孤立を作るパラドクス

 

自分より弱き人(ひきこもりやホームレスなど生活力の少ない人)に対し、「自立しろ」という言葉を投げる場面を見かける事(ヤフーニュースのコメント書き込んでる層になぜか多いよね)があるが、究極的な自立(自律)とはむしろ孤立の道を進んでいってしまうパラドクスでもあるという。

 

▶︎ <引きこもりは「ディオゲネス症候群」か、専門家が分析古代ギリシャの哲学者が由来>宮下 直紀(あなたの健康百科)


 近頃聞かれる様になってきた、「多くの依存先を見つける事こそ自立である」という論は説得力ある。 自立の在り方を誤り、自律しながら自閉してしまう人も居る。社会的成功者やいわゆる「れっきとした大人」が実は精神的に孤立することもあるのはそういう事だろう。「なんでも自分でできる」よりも、「手を貸してもらう」事を学ぶ必要があった。

 自律傾向の果ての社会的孤立化を「ディオゲネス症候群」というらしい。先日の僕も登壇したシンポジウムでフランスでのひきこもり研究の第一人者である古橋忠晃先生の発表で知った。

 「自律が足りない」ではなく「自律しすぎる」事で孤立やひきこもりや、身なりの無頓着、ゴミ屋敷化などが起きる事も。中には、一見、清く慎ましやかな孤立というのもあるだろう。

 日本社会はこうした自律の態度を個人に課してしまうところがある。
だからこそ、関係性づくりや相互扶助、互助関係、ピアサポートは「健全な共依存」であり、関わり合い助け合いの価値を再認識する。

 

参考
▶︎ <自立とは「依存先を増やすこと」>熊谷晋一郎(全国大学生活協同組合連合会)
▶︎ 「 自立とは依存しないことではなく、依存先を増やすことだ」若者の自殺に詳しい松本俊彦さんに聞く>鳥集 徹(文春オンライン)

 

日本の民族性の場合、教育の中で主体性を抑制されている。主体性を持ち、社会的自律を果たした人が陥る孤立もあるということ。また、集団化することが個人の主体性を抑圧する場合もあるので、「主体性や自律」と「健全な共依存」のセットをバランスよくすることが大事なのだと思う。

 

「清貧」とか「断捨離」みたいな美学を取り違えて孤立していく<日本的自律性の罠>もあるのではないか。「自己責任」なんかもそうだ。

 

考察を深めていくと、ヤフーニュースで ひきこもりやホームレスの記事が出るたび、当事者叩きをして「自立しろ!」とコメント欄でほざくおっさんがいかに間違えているか、よくわかる。ともあれ、彼らも”自立教”の洗脳被害者であり、孤立感があるのかもしれない。

頑張る事とは一人で背負いこむ事と勘違いしてしまっている自分も居る。自己完結するならば孤立やセルフネグレクトしても仕方ないと思ってる自分も少なからずある。それよりも甘え上手になる、見知らぬ人でもちょっと助けて貰う方法を上手くなる、あなたの為ならと思い合える関係を作る事の方がよっぽど大事だ。気づけてよかった。

 

あなただけで出来ない事はあなたとわたしですればいい。

わたしだけで出来ない事は誰か助けてください。


《プロジェクト「あなたの傷を教えてください。」》2016-